パキスタン旅行記9ラホール最後の晩餐

 行き来た道を戻りラホールに帰ってきた。日の落ちた旧市街のバザールを散策する。この頃のパキスタンの政情からか驚くほど観光客が少ない現状を表してか土産屋を営む店が一軒も無い。何か良いものは無いかと探しているうちに、私の目についたのがサルワール・カミーズ、パキスタンの民族衣装だ。シャツの裾が膝ぐらいまであるパジャマみたいな感じで日本でも部屋着にもってこいだ。店員が言い値を間違えて清算の時気づき大慌て!

「でも言ったよね!さっき君が言った値段しか持ち合わせ無い。さっきの値段で買うか諦めるか・・・」

ってな訳で得してしまった。ごっつあんです!

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(アナルカリ・バザール)
 バザールを南下したところに食堂が集まる通りがある。そこでガイドさんと夕食を摂った。今日は鍋料理、って言っても結局ナンに浸けて食べるし辛いからカレーと同じ。だけどカレーは水分が多いのに対し蒸し煮にして水分を無くすのがパキスタン流鍋。だけどその名前がややこしい。鍋の事を「カライ」と言うのだ。チキン鍋ならチキンカライ。「カレー?カライ?辛い?」日本人だとゴッチャになってしまってややこしいのだ。

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(チキン・カライ)
 パキスタンの食堂で有り難いのはどんな安食堂へ入っても味噌汁代わりにヨーグルトが付く事。そしてナンは焼きたてが出てくるところ。無い食堂では分業制で注文が入り次第近くのナン屋が駆けつける。ナンは少なくなると補充してくれる。

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(料理人)
 そんな時車椅子に乗った少女が物乞いにやって来た。充分食べた私達は手付かずのナンと残ったカライを店員に言って包んで貰う。店員も慣れた風で簡単に作って彼女に差し出した。

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( チキンティッカ=焼き鳥 後方はナン)
 イスラームではこうした弱者に施すのが当たり前になっているからその動作が無駄が無いので相手にも優しい。これも身分差のある隣のインドでは有り得ない光景だし、この頃の我々の社会も人の事は言えない弱者に冷たい社会だ。

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(フードストリート)
 ではどうして彼等はそれが身に付いているのだろう?日本にも弱者救済の制度があるが、それは国が作った制度であり外面的なものだ。制度は他人が作ったものだから、それに従わない者やズルをする者、悪用する者等が出てくるものだが、宗教は人の心の中にある信仰心、だからそれを守るのが当たり前と思っているからズルなど考えもしない。だからイスラームの国では富める者は当たり前の様に弱者に喜捨し弱者も媚びへつらう事無く施しを受ける。制度では無い、習慣として弱者救済が成り立っている。

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(食べてくかい?)
 こうしてラホールの最後の夜は更けていった。宿に戻って部屋に入ると内線の電話が鳴った。

「暇あるか?なら降りて来い!」

 ホテルのフロントからだ。「またかいな!」と苦笑しながらフロントまで降りていく。一泊目フロントに両替を頼んだ私は1時間待たされた。なんでそんなにかかるのか?怪訝に思いながらも1時間待つと、電話でフロントまで降りて来いと。頼んだ金額を受けとると「チャイ飲むか?インターネットも出来るぞ!」とフロントマンは言う。新手の商売かな?と思い初日は断った。

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(パンジャビー・ドレス)
 翌日も小用で両替を頼むと再び1時間待たされてフロントに呼び出された。そしてまたチャイを勧められる。そこで漸く気がついた。要するに彼は私とお話がしたいのだと。それ以来用も無いのに電話がかかってきてはチャイを御馳走になり彼と他愛ない話をした。そして今夜も。そして私がサルワール・カミーズを買ったよと話すと是非着替えて来いとの事。

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( サルワール・カミーズを纏うシャーサックーン(笑) )
 こうしてスーツ姿のパキスタン人のホテルのフロントマンとパキスタンの民族衣装を纏った日本人の旅人がホテルのフロントでチャイを啜りながらラホール最後の夜は更けていくのだった。