パキスタン旅行記6ワガ国境

 街に夕暮れが近づく頃私は街を出て国境へと向かった。ラホールから東に30キロ、ラホールはインドとの国境の街でもある。

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イギリスは第二次世界大戦の勝者ではあったが戦争で疲弊し各植民地は次々と独立を目指した。インドもその中の一つであったが、独立に際し大多数を占めるヒンズー教徒の中で、ムスリム少数民族化するのを恐れたムハンマド・アリ・ジンナー(パキスタン建国の父)が苦悩の末分離独立を決意する。

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(ムハンマド アリ ジンナー)
統一インドを悲願としていたマホトマ・ガンジーはギリギリのラインで譲歩を試みるも、逆にヒンズー至上主義の若者に暗殺されてしまう。この事で事実上インドとパキスタンの分離独立は確定した。

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しかしその国境ラインが現地を全く知らないイギリスの弁護士が引いた事(ラドクリフ・ライン)分離独立が市民に行き渡らないうちに早急に決められた事で数々の悲劇と痼を残す事となった。インド側に住んでいたムスリムパキスタンを目指し、パキスタン側で暮らしていたヒンズー教徒は一斉にインドを目指した。その時の衝突で紛争、虐殺が繰り広げられ多くの犠牲者を生む事となった。

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一番厄介だったのが北部のカシミール。そこは藩王国と呼ばれムガル帝国時代の自治王国の様な存在だったが、王がヒンズー教徒であったのに対し住民の多くはムスリムだった。当然民主的にはパキスタンに属す方が正しいのだが王がインド帰属を求めた事から、多くのムスリムを守りたいパキスタンと帰属の約束を交わしたインドとの間で国境を巡り数度に渡る紛争に及んだ。

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それはやがてインドとパキスタン核武装に発展し、米ソ核戦争の恐怖を飛び越えてインドとパキスタンで核戦争が始まるのではないかと世界を恐怖に陥れた。これは思わぬところで思わぬ推測を生む事になるが、それはあとで記する事にしよう。

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そんな中、インドとパキスタンの国境で紛争の合間を縫って今まで日々欠かさず両国の平和を願って繰り広げられているイベントがある。ラホールとインド側のアムリトサルの間にあるワガ国境で夕方の国境閉鎖に伴う両国の国旗の降納時に応援合戦を行うと言うもの。

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残念ながら昨年そんな平和の式典もテロの犠牲となり、空港以上の厳戒体制で応援合戦は始まった。恰幅の良いパキスタンの国旗模様の民族衣装を纏った男性が国旗を振りかざす。もう一人、片足の男性は片足独特のリズムでクルクル回転しながら国旗を振り乱す。ジーエー、ジーエー、パキスタンパキスタン!ジンダバード!(パキスタン万歳!)と掛け声をあげながら。

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国境の向こうのインド側でも盛り上がりは絶頂に向かっていた。インド側は男女混合だが、此方は男子と女子席が道を挟んで区別されているのが印象的だ。前座の二人が去ると扇子を乗っけた様な軍帽を被った兵士達が入場、互いの足をどちらが高くまで振り上げられるか競うかの様に、まるで威嚇し合うかの様に振り上げて互いにエールを贈り合う。そんな事を繰り返し両国の国旗は無事降ろされそれぞれの陣地に納められ国境は閉鎖される。

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最初こそ余りの勢いに飲まれていたが、不思議と最後は私も自然とパキスタン!ジンダバード!と大声をあげていた。この平和な祭典が途切れる事無くいつまでも続いて欲しいと心から願わずにはいられなかった。