パキスタン旅行記2ラホール史跡編1

 ラホール城の城門に到着した。ラホールは現インドのデリーとアグラに並び、ムガル帝国の重要な三都市の一つで、それぞれに城が設けられ現在も残っている。アグラとデリーはそれぞれの皇帝が新築しそこを居城としたが、此処ラホール城は3代アクバルが築いた後も6代アウランングゼーブまでそれぞれの皇帝が増築を施している。

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(ラホールフォート アラムギリゲート)
 歴史を紐解くとどうやらアグラ、デリーに首都機能があった様だが、前述の通り各皇帝が増築を繰り返す程だから、情勢によって、若しくは季節によりアグラやデリーから移動しても此処で政治を行う事を皇帝達は望んでいたのかもしれない。

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(モーティーモスク)
 ただムガル帝国末期になると勢力範囲が狭められ、変わって力を付け始めたシク教徒やその後この地を統治したイギリスにより城は荒らされ放題となり、その為アグラやデリーの城より残念ながら保存状態は良くない。

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(シャージャハーンの庭園)
 しかし広大な城内には建築を開始したアクバルの遺構こそ質素ながら、その後繁栄期を彩った4代ジャハーンギール、5代シャージャハーンが残した謁見施設や庭園が並び立つその景観は、当時の栄華を彷彿させてくれる。

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(ジャハーンギールの庭園)
 その中でも白眉なのが、シャージャハーンの妻、ムムターズ・マハルの居室としてシャージャハーンが築いたシーシュ・マハルである。壁や天井が鏡貼りで出来た宮殿だ。鏡貼りと言っても如何わしいホテルのそれと一緒にしてはいけない。

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(シーシュマハル 鏡の間)
 鏡の小片を組み合わせた紋様を張り巡らせてあり、それは夜になるとランプの光をキラキラと反射させ幻想的な空間を作り上げたと言う。更に中庭には浅い池設けられ、月夜には池に反射した月光が更に鏡に反射してキラキラ輝いたそうだ。この部屋を贈られたムムターズ・マハルの霊廟こそ、かのタージ・マハール。彼女はどれだけシャージャハーンに愛されていたのだろう。

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(ラホールフォートからバドシャヒーモスクを眺める)
 こうして4代、5代と栄華は続いたが、6代アウラングゼーブは、父5代シャージャハーンが、国費をタージ・マハール建造に注ぎ込み、築いた後も更に自分の霊廟を築こうとする彼を我慢出来ず、父をアグラ城に幽閉し自らが皇帝となった。

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アウラングゼーブ ラホール博物館所蔵)
 そんな彼はラホール城に自分の謁見台を新設する事も無ければ庭園も築かなかった。彼が築いたのはアラムギリ・ゲートと呼ばれる城門とそれに向き合うかの様に作られた壮大なモスク。バドシャヒー・モスクだ。

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(バドシャヒーモスク
 インドのデリーの城にもシャー・ジャハーンが築いたジャマー・モスクがあり、スタイルはそれを踏襲しているがバドシャヒー、訳すと王家のモスクと名付けられたこのモスクは規模でも存在感でも超越していた。思わずその迫力に圧倒された。

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(バドシャヒーモスク)
 親が国費を私的なものに乱用するのを許せず幽閉までしたアウラングゼーブ、そんな彼は、非情ではあったが、実力を伴う皇帝ではあった。事実彼の政権時ムガル帝国の領土は史上最大となった。反面彼が自らが信望するイスラーム教を大切にする余り、3代アクバルから4代5代と続いた繁栄の秘訣、ヒンズー教との融和政策を棄ててしまった事から、彼の死後帝国は衰退の一途を辿る。ムガル帝国にとって彼は諸刃の剣の様な男だった。

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(バドシャヒーモスク内部)
 彼は正義感が強くストイックで、自ら信じるものに愚直なまで素直な男だったのだろう。彼が建てたバドシャヒーモスク、それは彼の生き方そのものを表現したかの様に質実剛健克つ威風堂々としたモスクだった。