井の中の蛙、旅に出る

 この夏以来、洒落にならない怖い話を貪る様に読んでいたのだが、そんな中で妙に感銘を受けた作品があるので此処に紹介したい。

踏み入れるべきではない場所

 人の持つ恐怖心、それは生きていく上で必須の能力であり本能とも言える。これを持ち合わせていなければ、降りかかる危機から自らを守る事は不可能だろう。

 しかしながら時にそれは限度を超えてしまう。人は恐怖すると防衛本能が働く、しかしそれが過剰になった時、悲劇が生まれる。身近な場合では虐め、差別、そしてその最たるものが戦争だろう。

 政治家と言う老い耄れ達が恐怖を煽り防衛と言う大義妙文で争いを正義と言う言葉に摩り替えていく。

 それに対して我々一般市民なぞは井の中の蛙の様なもの、井戸の外は危険だぞ!とメディアが騒げば蛙の合唱が聞こえるだろう。

 戦時中、我々は鬼畜米英と教育を受けた。唯一地上戦が行われた沖縄ではその為死ななくても良い多くの命が失われた。

 現代は情報化社会、あの時とは違うよ!と言うかもしれない。でも構図は全く変わっちゃいない。逆に巧妙化し解った風にさせられてるだけではあるまいか?

 あの2001年9月11日、巧妙に作られた茶番劇に世界は煙に巻かれイスラームは叩かれる一方だった。報道はテロリズムと1日5回の礼拝姿ばかり、イスラームは過激でカルトな宗教だと言わんばかり。これでは鬼畜米英が鬼畜イスラームに刷り変わっただけ。在りし日と構図は全く変わっちゃいない。

 私はそれにとても違和感を感じたんだ。私だってただの蛙、だけど以前へっぴり腰で井戸の外を旅して解った事がある。確かに言われた通り危険な目にも一杯遭った。でもそれ以上に暖かい親切に励まされ旅を続けた。そこには我々と全く同じ、平和を愛する蛙達が住んでいた。

 だから思ったんだ。旅人を自称するなら自分の目で確かめてから答を出そうって。勿論1回旅したくらいで解る事なんて限られてる。だけど情報に操られて他人を傷つけるのは人として卑怯じゃないかって。

 こうして10年に及ぶ私のイスラームをテーマとした旅が始まった。そしてそれは昨年成就したけれど、やっぱり私は再びイスラームの国を目指す。

 今私達に求められているのは怖れる事では無く、知る事なのだと思う。知る事で事前に恐れていた殆どは杞憂に終わる事を知る、本当に畏れなければいけない事なんて本当に一握りなものだ。そしてそれ以上に心を揺さぶる知の泉が訪れた人々の心の世界を広げてくれるだろう。旅に出てその国を知る事で、また一つ、私の心の中で国境が消えてゆく。

 井の中の蛙、さあ旅立つ時が来た!精一杯旅をし、感じろ!触れろ!見ろ!自分!そして自分なりの答を探せ!自らの口で語れ!

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 第一声は決めてある。心の臓に右手を当てて、そして差し出そう。

アッサローム アレイコム

貴方が幸せであります様に!

明日、始発に乗って旅立ちます。