ムガル帝国栄枯盛衰4

 父を牢に閉じ込め、6代目の王となったアウラングゼーブ、彼は冷徹でありながら実力も兼ね備えた王である事は間違いなかった。事実彼の死の直前、ムガル帝国の領土は史上最大となっていた。しかし彼はやってはならない事を犯してしまった。それまで続いたアクバルの宗教的融和政策を破ってしまったのである。

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ムガル帝国最大版図アウラングゼーブ没時、ほぼ現在のインドとパキスタンを併せた領土となる;引用)
 彼は熱心過ぎるイスラーム教徒であったと言える。イスラーム教徒は本来墓造りにそれほど金をかけない。だから国を傾ける程の資金を投じた父の行為は余計許せなかったのだろう。しかしヒンズー教徒が多いインドの土壌でアクバルの融和路線を破りイスラーム一辺倒な政治を行った事は大きな反発を生む結果となり、それはジワジワとムガル帝国を追い詰めていく結果となる。

 インドの南西部、彼の名を冠した街アウランガーバードに彼の子供が母(つまりアウラングゼーブの妻)を慕って建立した廟ビビー・カ・マクバラーが残っている。タージ・マハールを模して作られたその廟は、規模も小さく、白亜の建築もタージ・マハールの総大理石とは打って変わって殆ど漆喰のみで代用され国の栄枯盛衰を感じさせずにはいられない。

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 ではアウラングゼーブ本人はと言えば、アウランガーバード郊外のグルダーバードと言う村にある聖人の墓の脇にヒッソリと廟も建てられる事無く青空の下眠っている。それは本人が望んだ事だったと言う。

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 それは墓造りに没頭し国費を傾かせた父への反面教師と言う気持ちからだろうか?それとも自分の意思を通したものの結局国を危機に追い込んでしまった自責の念からだっただろうか?

 彼の死後帝国は坂道を転がるかの様に勢力範囲を狭めてゆく。迫りつつあるヒンズー王国、シーク教徒・・・しかしインドの覇権を握ったのはまたしても外来の勢力、即ち東インド会社を設立し、虎視眈々とインドの植民地化を狙っていたイギリスだった。

 やがてムガル帝国は帝国とは名だけの首都デリー周辺を納める一領主に過ぎない存在となっていった。1857年イギリスの支配に反対する勢力に担がれたバハドゥール・シャー2世がセポイの反乱を起こすもイギリスに平定され同じくイギリスの植民地であったミャンマーに配流された。此処にムガル帝国は滅亡しインドはイギリスの完全な植民地となる。

これ以降の近代史は旅の途中で(後で)話そうと思う。