ムガル帝国栄枯盛衰2

ティムールの死後国は一旦混乱するも7代に渡り平穏を保つがその後ウズベクのシャイバニによりティムール帝国は滅亡した。

 そしてその後ティムールの血縁バーブが、モンゴル帝国の末裔、ティムールの血統を旗印にサマルカンド奪還を目指すものの、尽く失敗してしまう。

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(シャーズィヒンダ廟;サマルカンドウズベキスタン
 彼は失意の中故郷サマルカンドを後にして南下を始めた。現在のアフガニスタン・カブールで再び王朝を開こうと戦うが彼はそこでも花を開かせる事が出来ない。そして更に南下を続け、インドのデリーにて漸く念願の王朝を開く事に彼は成功するのである。

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(デリー城;デリー;インド)
 モンゴル帝国の末裔、ティムールの血統!そう旗印を掲げ開いた王朝、人はそれをモンゴル王朝と呼んだ。ただし現地の訛りが加わってムガル王朝、即ち此処にムガル帝国が生まれた事になる。つまりムガル帝国とはインド人では無く外来の勢力が開いたインドの王朝と言う事になる。

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(フマユーン廟;デリー;インド)
 だがバーブが創設したムガル帝国は跡を継いだフマユーンの時、早くもピンチを迎えてしまう。アフガニスタンで興ったシェール・シャーの軍勢がデリーに押し寄せフマユーンはデリーから追い出されてしまうのである。その後部下にも見捨てられたフマユーンは西のサファビー朝ペルシャに亡命、此処で早くもムガル帝国は一旦滅んでしまう事となった。

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(フマユーン廟;デリー;インド)
 しかしデリーを占拠したシェール・シャーも跡継ぎ問題で躓き早くも国は傾く、そんな好機をフマユーンは見逃さず、人質に出されていた息子アクバルを救出しデリーの奪還を果たす。こうして再びムガル帝国は復活した。

 しかしそれも束の間、フマユーンは図書館の階段から落ちてしまい、その怪我によって敢えなく他界してしまう。再びムガル帝国に訪れたピンチ。息子のアクバルは未だ13才、側近達も何処まで信用して良いか海千山千、誰しも乗っ取られてしまうのでは無いか?と言う状況にアクバルはいた。

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(アクバルが作った都ファーティプルシクリ、イスラーム建築にこだわらずヒンズー建築との融合が見られる)
 しかしそんな中、幼少時代を辛い人質生活を送り苦労して成長したアクバルはその中で色々と成長したのだろう。彼は虎視眈々と権力の座を狙う者達を説き伏せ、ヒンズー教と融和路線の政治を行う事で圧倒的多数のヒンズー教徒の国でイスラームの王が政治を行うと言う不安定な状況を磐石な体制へと変換する事に成功した。

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(アクバル廟;アグラー郊外;インド)
 こうしてアクバルが取った行動はそれまで不安定だったムガル帝国を大帝国へと成長させた。アクバルとはアラビア語で「偉大な」と言う意味を指すが、彼はその名に恥じない傑物だった。イスラームヒンズー教の融和を図った彼は、今はヒンズーの国であるインドに於いても人気があるムガル帝国の名君である。